こんにちは、井上和香奈です(^^)
電車の中でマナーの悪い人に対して過剰にイライラしてしまう傾向が私にはあります。
周りを見ると他の乗客のみなさんはスマホをいじったり目をつぶったりしていて、気にしてない様子。
イライラしている自分はなんて小さい人間なんだろうと思ってしまいます。
そんなイライラする自分が嫌で、一時期心が広い人になろうと思って自己啓発本を読み漁り、「人の良い所を見つけてみよう」とか「人の身になって考えよう」という教えに基づいて行動した時期もありました。
職場の嫌いな人のいいところを探して、心をヒリヒリさせながら笑顔を作ってその人としゃべっている自分。
もしかしたら「誰とでも仲良くできる心の広い人」として見られることに成功していたかもしれません。
だけど本を読み、自分は変われた!と思ったのもつかの間、仕事を辞め専業主婦になった今、嫌な人は常にいて、その人に対してイライラしている自分も常にいます。
いい所を見つけられたところで嫌いな人はやっぱり嫌いなのです。
電車の中で子供を騒がせっぱなしの親。(親はしれっとして悪びれる様子もない)
公共の場でイヤホンせずにスマホの動画音を周りに垂れ流して観てる人。
住宅街で必要以上に大きな声で話す人。
私の好みではありません。
その人の身になって考えてみるとしたら、
「子供は騒ぐものだし、子育てが大変で疲れているのだから仕方ない」
「スマホの使い方に慣れてなくて音漏れしていることに気づいていない」
「本人は声が大きいという自覚がなくて悪気はない」
こんな感じに解釈すればよいのでしょうか。
これじゃあずっと我慢し続けてる側の自分がかわいそうです。
あほらしくてやってられません。
何か特別な事情があったのなら仕方ないと思えますが、実際のところそういうケースは稀で、ただ単に気遣いが出来ない人なんだと思います。
その人にはその人の正義があるのかもしれませんが、それを理解するまでにかかるこちら側の労力を考えると知りたくもありません。
だけど、自分の世界に存在して欲しくないけど、嫌いな人はいつでもどこにいっても目の前に現れるので、存在することは諦めるしかないのだと思っています。
月と太陽があるように。陰と陽があるように。ポジティブな人とネガティブな人がいるように。コレクターとミニマリストがいるように。この世は両方存在するというルールがあるようです。
神様からすれば、どちらがよくてどちらが悪いという概念はないのでしょう。
だから小さいことでイライラする自分や相手を好きになれない自分も許されると信じて、嫌いな人を無理に受け入れることをやめることにしました。
そんな考えでは人として成長できないし、人間としての幅が広がらない?
結構です。
横に広がっていくことをやめて、もっと自分自身と自分が大事にしたい人との関係を深く掘り下げていくことに私はエネルギーを使いたいです。
過去の私は、嫌いな人を受け入れられない自分がダメな人間に感じ、「受け入れないと」という強迫観念から相手のことを必要以上に意識してしまい苦しんできました。
だけど「受け入れなくていい」と決めると、相手をこんな存在に感じるようになってきます。
「風の音」「遠くで聞こえる工事現場の音」「車の音」などは、その存在をはじめから諦めて受け入れているので気になりません。風に対して「もっと静かに吹いて欲しい」とは思いませんし、この現代社会で車の存在を否定するわけにはいきません。
それと同じレベルとはいきませんが、嫌いな相手も「存在するのは仕方のない物」として処理できるようになり、必要以上に感情が揺さぶられなくなりつつあります。
嫌いな人を一人の人間としてちゃんと理解しようと思うから辛かったのです。
「色んな存在が許されているこの世界に存在するもの」と思えば少し気がまぎれます。
これからは、自分の為に自分の身になってどうやったらこの不条理で理不尽な(ようにみえる)世界で楽に生きていくかを考えることにエネルギーを使いたいと思います。
怒れる中年女の記事を最後までお読みいただきありがとうございました。
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